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【新プロジェクトX】結束が温泉街を変えた 黒川温泉、山間地に客を呼んだ挑戦者たちの物語【5月10日】

2025年5月10日放送のNHK「新プロジェクトX〜挑戦者たち〜」では、「結束が温泉街を変えた 黒川温泉 山間地に客を呼べ」と題し、熊本県が誇る人気温泉地・黒川温泉奇跡的な再生ストーリーが特集されます。この記事を読めば、かつては無名で衰退しかけていた山間の小さな温泉街が、いかにして年間100万人以上が訪れることもある全国有数の観光地へと変貌を遂げたのか、その秘密に迫ることができます。

中心人物の揺るぎない信念、地域全体を巻き込んだ「結束」の力、そして「田舎らしさ」を逆手に取った斬新な発想から生まれた数々の取り組み、さらには熊本地震という未曽有の危機を乗り越え、今なお進化を続ける黒川温泉の挑戦の軌跡を、具体的なエピソードを交えながら詳しく解説していきます。

地域再生のヒントを探している方にも、心揺さぶる挑戦の物語に触れたい方にも、多くの発見があるでしょう。

目次

新プロジェクトX 結束が変えた!黒川温泉 奇跡の再生劇

今回の「新プロジェクトX〜挑戦者たち〜」では、熊本県阿蘇の山間にある黒川温泉が、いかにして「結束」の力再生を遂げたのか、その感動的な道のりが描かれます。

一時は寂れかけた温泉街が、全国から注目される人気スポットへと生まれ変わった背景には、数々の挑戦とドラマがありました。

廃れゆく温泉街…立ち上がった男の「ありえない」信念

昭和後期、黒川温泉は多くの地方温泉地が抱える課題に直面していました。

団体旅行から個人旅行へのシフトという時代の変化に対応できず、交通の便も悪いことから「鳴かず飛ばずの状態」が続き、地図にも載らないほど無名な存在だったのです。

この苦境の中、立ち上がったのが旅館「新明館」の三代目経営者、後藤哲也氏でした。

彼は温泉街の将来に強い危機感を抱き、全国の観光地を巡って人々が本当に求めるもの、それは物質的な豊かさではなく「癒し」の空間と「自然との共生」であると確信します。



後藤氏が提唱したのは、都会の模倣ではなく「田舎には田舎にしかない良さ」を最大限に活かすという、当時としては常識破りともいえる逆転の発想でした。

派手な看板やネオンを排し、木造の温かみのある宿、自然の地形を活かした露天風呂、そして静かでゆったりとした時間を前面に押し出すビジョンを掲げます。

この考えは、人々が精神的な充足を求め始めていた社会の変化を鋭く捉えたものでした。



後藤氏はこのビジョンをまず自身の旅館「新明館」で体現します。

建築や造園の専門知識がないにもかかわらず独学で技術を習得し、自らノミと金槌を手に取りました。

特に有名なのが、旅館の裏山に10年もの歳月をかけて手作業で掘り進めた「洞窟風呂」です。

これは彼の執念と、訪れる人に心からの安らぎを提供する「雰囲気」づくりへの強いこだわりを象呈しています。

この一個人の情熱と行動が、静まり返っていた黒川温泉に大きな変革の渦を巻き起こす原点となったのです。

「競争より協力!」若者たちが起こした前代未聞の結束

後藤哲也氏の行動は、黒川温泉の他の旅館経営者、特に若い世代に大きな影響を与えました。

「自分たちの町にもまだやれることがあるのではないか」という希望の灯がともり始めたのです。

そして、黒川温泉の再生を決定づけたのが、温泉街全体が一つの大きな宿であるという独創的なコンセプト「黒川温泉一旅館」の実現でした。

個々の旅館は競争相手ではなく、巨大な旅館の「離れ部屋」、旅館同士を結ぶ小道は「渡り廊下」、周囲の自然は「宿の庭」と見なすこの構想は、地域全体の価値を高める「共存・共創」の精神を明確に打ち出すものでした。



この理念のもと、黒川温泉観光旅館協同組合は看板班、環境班などを組織し、具体的な活動を推進します。

特筆すべきは、これらの班のリーダーに当時30代だった若手経営者を積極的に登用したことです。

これにより、新しい発想やエネルギーが地域づくりに注ぎ込まれました。

もちろん、最初から全ての旅館が賛同したわけではありません。

「何であいつらだけでやっとるんか」という反発の声もありましたが、後藤氏が自らの旅館で成功事例を示し、ノウハウを共有し、「これは黒川温泉全体のためになる」という大義名分と粘り強い対話によって、徐々に協力体制が築かれていきました。

この「運命共同体」としての意識の醸成こそが、黒川温泉の結束の核となったのです。

看板も自然も全部統一?「入湯手形」で街がまるごと宿に

「田舎には田舎にしかない良さ」を追求する黒川温泉のまちづくりでは、温泉街全体の景観の調和が最重要視されました。

その象徴が、けばけばしいネオンサインや派手な看板を徹底的に排除し、日本の原風景ともいえる「里山のような景観」を創り上げることでした。

2001年には「風景づくりの三原則」を含むまちづくり協定が締結され、看板は黒や茶を基調とした木製の共同案内看板に統一、建物の外観や素材、街路灯に至るまで細かなルールが設けられ、その遵守が徹底されました。

自動販売機ですら木製カバーで覆うほどのこだわりようだったのです。



そして、この結束と景観づくりを支え、黒川温泉の名を全国に知らしめたのが、1986年5月に導入された「入湯手形」です。

これは、加盟旅館の露天風呂の中から3ヶ所を選んで入浴できるという画期的なシステムで、1枚1,200円(当時)で販売されました。

この手形は、敷地の制約などで魅力的な露天風呂を持てなかった旅館を救済し、温泉街全体で助け合う「共存共栄」の精神を具現化するもので、長野県の野沢温泉の事例がヒントになったといいます。

手形自体も地元産の小国杉の間伐材を使用し、製作には地元の老人会が協力するなど、地域資源の活用と地域内循環も意識されていました。



入湯手形の売上げの一部は旅館組合の自主財源となり、景観整備や共同での宣伝広告費に充当されました。

当初は反対意見もありましたが、組合理事長の英断と、制度の成功による温泉街全体の活性化を目の当たりにし、次第に多くの旅館が積極的に参加するようになります。

ピーク時の2002年度には年間約21万3千枚も販売され、「露天風呂めぐりの黒川温泉」というブランドイメージを確立しました。

近年では、2022年にリニューアルされ、飲食やお土産にも使える「地域通貨」としての機能も加わり、さらに売上の1%が景観づくりや自然環境保全に還元される仕組みも導入され、進化を続けています。

地震も人手不足も怖くない!進化し続ける黒川の今

黒川温泉の挑戦は過去のものではありません。

2016年4月の熊本地震では、直接的な建物被害は少なかったものの、深刻な風評被害により観光客が激減し、経済的損失は10億円にものぼったといわれます。

しかし、ここでも地域コミュニティの結束力が発揮されました。

ウェブメディア編集者らが発起人となり、全国から100人以上のクリエイターが集結し、現地で宿泊・消費しSNSで発信する復興支援イベントが開催されるなど、情報というソフトパワーも活用して危機を乗り越えたのです。

地域内でも、当時の組合代表理事・北里有紀氏ら若手経営者がリーダーシップを発揮し、被災者への風呂の提供や炊き出しなど、助け合いの輪が広がりました。



さらに現代の課題である人手不足や環境問題への取り組みにも積極的に取り組んでいます。

旅館から出る食品廃棄物を堆肥化し農作物を育て、それをまた旅館で提供する「黒川温泉一帯地域コンポストプロジェクト」は、「サステナアワード2020」で環境省環境経済課長賞を受賞しました。

また、地元特産のあか牛を地域内で一貫して肥育・精肉し提供する「次の100年をつくるあか牛“つぐも”プロジェクト」も推進しています。

観光戦略としては、一部旅館で伝統的な「一泊二食付き」を見直し、宿泊と食事を分離する「泊食分離」を開始。

これと連動し、地域の食のハブとなる飲食店エリア「Au Kurokawa(アウ クロカワ)」を整備し、2024年初頭にはカフェ「Au Pan & Coffee」がオープンしました。



地域外の人々と継続的に関わる「関係人口」の創出にも早くから取り組み、「“いち黒川”わっしょいプロジェクト」では、多様な立場の人々が対等に議論し、NPO法人設立や伝統芸能の継承といった成果を生み出しています。

そして、これらの挑戦の精神を次世代へ繋ぐため、2021年には「世界を癒す、日本里山の豊かさが循環する温泉地へ」という2030年を見据えたビジョンを策定。

黒川温泉は、過去の成功に安住することなく、常に進化し続けるコミュニティとして、持続可能な地域モデルを目指し挑戦を続けているのです。

まとめ:黒川温泉の成功に学ぶ大切なことについて

黒川温泉の再生と発展の物語は、一人のリーダーの先見性と行動力、そして何よりも地域住民の「結束」がいかに重要であるかを教えてくれます。

過去の成功に甘んじることなく、時代の変化に対応し、新たな課題に挑戦し続ける黒川温泉の姿は、多くの地域社会にとって大きな勇気と貴重な教訓を与えてくれるでしょう。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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